開発経済学と経済成長論

2つのディシプリンの関係について、某所で、山形浩生さん(評論家)、梶谷懐さん(神戸学院大学中国経済論)、稲葉振一郎さん(明治学院大学、社会倫理学)その他の皆さんから解説を頂いたので、転記しておきます(一部省略あり)。


【小田中】それは良いとして、それにしても
・「経済発展論」ってなんだ?
・内容のほとんどは経済成長論と重複しているように思えるが、両者の違いはなんだ?
・そういえば、似た名前の学問領域として「開発経済学」があるが、開発経済学と経済成長論と経済発展論の違いはなんだ?


【山形】(ため息)これだから最近のお若い方ったら……
あのね、昔は両者は同じことだったのよ、おおむね。経済成長は経済開発/経済発展 (economic development) と同じものだったの。でもその後、アンチ経済成長な方たちがたくさんいらしたのね。ゲバ棒なんかふるったりして。経済の発展というのは、やみくもな成長路線とはちがう! GNPよりGNH (国民総幸福) だ! なぁんておっしゃったりして。あの王さまも当時はおかわいらしかったのよ、うふふ。
 それどころか、経済成長は国民の格差を拡大するもので、したがって弱者を虐げ、國全体としての発展にはつながらず、貧乏人の犠牲の上に金持ちだけが繁栄する仕組みだ! とか言い出すかたも登場なさって、それに対して成長マンセー派はトリクルダウン理論とか持ち出されたんですけど、でも実際なかなか貧乏な方までお金がまわらず開発の恩恵も届かない状況は確かにございましたのよ。
 そんなわけで、成長=開発/発展とは言い難い雰囲気になってきて、そこへ駄目押しで世銀の前親方のウォルフェンソンさんったらええかっこしいで、「もう経済成長路線はやめ! これからの開発援助は貧困削減にBHNだ!」とか酔った勢いで口から出任せ言うもんだから、もうたいへん。
 そんなこんなですったもんだして、「やっぱり成長しないと他の問題にまわす余力もできない」という当たり前のことに皆さんが再び思い至ったのは、もうほんのここ数年のことでございますのよ。そんなこんなで、開発と成長との関係は未だにちょっとぎくしゃくしておいでですの。おわかりになりまして?


【Fellow Traveler】口の端にのぼらせるのも恐れ多きことながら、「昔は両者は同じことだったのよ」とはいかがなものかと愚考いたします。やつがれが思うに、さらに昔々、40年代くらいにローゼンスタインロダン、ヌルクセ、ハーシュマンというかたがたが開発経済学を唱え始めたころは、先進国を扱う経済学に対して、(大部分の)国では違う経済学が必要という大それたことを考えていたかに思います。クルーグマンどのの言葉をお借りすれば「英雄時代」だったということでしょうか。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4830943351/qid=1147271992/sr=1-4/ref=sr_1_10_4/250-4736850-5437044
もちろん、最近では成長論も制度やら慣習やらなにやら議論しますので、成長論と開発経済学の区別は経済学ではあまり意味がなくなりつつあります。開発経済学と経済発展論の区別はもとより意味がなかったように(Development EconomicsかEconomic Developmentの訳し分け)。昔話にご関心あれば、絵所どのの『開発の政治経済学』をお読みくだされ。足下。


【北方丸楠】経済発展論ったらロストウを想い起こす私は認知症の老人ですか。


【山形】あらやだ、ローゼンスタイン=ロダンさんなんて三葉虫みたいなお方を引き合いに出されましても困ってしまうわ。ロストウさんあたりでは、ほぼ開発=成長という認識でよろしいんじゃございませんこと?


【梶谷】「成長論と開発経済学の区別は経済学ではあまり意味がなくなりつつあります」という点ですが、最近ではむしろミクロの問題が開発経済学の主流になりつつある(すでになっている)ような気がしますが、関連した動きかもしれませんね。この方面ではバーダン・ウドリーの『開発のミクロ経済学』(福井・不破・松下訳、東洋経済新報社)がとても優れたテキストなのですが、現在在庫切れなのが残念です。


【小田中】皆さまありがとうございます。ということは
(1)三葉虫時代:開発(後発国)と成長(先進国)は違う
(2)ロストウ時代:開発=成長
(3)ゲバ棒時代:開発(small is beautiful)と成長は違う
(4)現在:「開発のミクロ経済学」と「新制度学派成長論」の収斂
という感じでしょうか? 


【稲葉】地域研究・開発プロパーの方は「開発経済学」のアイデンティティに拘る方が多いかと。やはり英雄時代への郷愁は消せないと言うか、センという新たな英雄も登場しましたし。僕の先輩の野上裕生のhttp://www.amazon.co.jp/gp/product/4258092045/とか。
澤田康幸開発経済学の現状」『国際社会科学2001』東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻,2002年なんてえサーベイもあったような。


【梶谷】「開発のミクロ経済学」と「新しい経済成長論」への収斂(「新制度学派成長論」という言葉は普通使われないと思います)という感じでしょうか。結局のところ旧来のマクロ的な経済発展論がほとんど理論経済学の一分野としての経済成長論その他に吸収されてしまったため、実証研究・フィールドワーク的関心から途上国の現実に関わろうとする人たちは半ば必然的に「開発のミクロ経済学」の方に行かざるを得ない、という状況があるのではないでしょうか(少なくともアメリカでは)。あとアメリカの大学の状況で言えば、それと平行して「法と開発」とか、AGRICULTURAL & RESOURCE & DEVELOPMENTとか、学際的なトピックとして「開発」を扱っていこうという動きもあるように思います。
「地域研究・開発プロパーの方は「開発経済学」のアイデンティティに拘る方が多いかと」という点では、これは僕などもそうでして、少なくとも実証研究をやる場合にはアメリカ経済や日本経済をやるのとは明確に違う(もっと泥臭い)ことをやっているという意識はあります。たとえ新古典派的なモデルを実証する場合でも、ミクロ的なデータを入手するためには色々な工夫・苦労をしたり、分析の解釈を間違わないためには実際に現地に行ってフィールドワークをする必要がありますよね。マクロではほとんど地域プロパーの優位性というのは働きませんが、ミクロの分析ではある程度地域に特化することに依然として意味がある(バーダンは南アジア、ウドリーはアフリカ、など)わけです。独立したジャンルとしての「開発経済学」が次第にミクロの方に特化していきつつあるのには、こういう背景もあると思います。